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豊橋 街歩き2 記憶の風景(5) 松葉町 豊橋市民病院

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豊橋市民病院が郊外の青竹町に移転してから、どのくらいたっただろう。
新市民病院では、妻の闘病中、たいへんお世話になった。休日には、二人で屋上から海を見たり、誰もいない外来待合室を散歩したり、たまには一人で海まで散歩したりした。そして、最後の一カ月はほぼ毎日、辛いけど、心の通った日々が続いた場所だった。
東三河の基幹病院である豊橋市民病院は昔、松葉町にあった。今、その跡地には「ココニコ」が立っているが、当時の救急救命センターの建物だけは、今も残っている。
結婚して間もなく、私は5年ほど、この市民病院の事務局に勤務していた。当時この救命センターは4階が外科、3階が未熟児、2階が内科のそれぞれのICUがあり、1階は救命救急センターだった。そして、我々事務員は順番でこの救命センターで当直を行った。いまでも、救命救急センターはドラマや映画の格好の素材になっているが、当時でも救急医療の現場では社会の縮図のような風景が日々展開されていた。
病院に異動になって初めての当直の日、救急隊が最初に搬送してきたのは列車事故の少年だった。列車の連結部分に乗っていて、豊橋駅で落下し、車両にひかれたらしい。
出血が多いので輸血が必要だが、連絡がとれた両親は、宗教上の理由でなかなか承諾しない。
そのうち、ドクターがどこかに足がないかと言ってきた。救急隊が持ってきたビニール袋には、少年の服やカバン、靴が入っていた。その中を調べると、あった。靴をはいた状態の足、それをドクターのところに持っていった所で、私の記憶は途切れている。
突然の交通事故で、ロビーで泣き崩れる遺族。火事や焼身自殺のすさまじい匂い、子供を抱え半狂乱で飛び込んでくる母親、治療中、暴れる患者を抑え込むのも大切な仕事、ヤクザの親分が撃たれた時は怖いお兄さんでロビーが埋め尽くされ、他に患者は一人もこなかった。また、救急センター前に到着したけれど、車の中で出産してしまった妊婦さん、産婦人科の分娩室にドクターがいると聞いて飛びこんだところ、そちらでも出産の真っ最中で、怒鳴られたこともあった。
身寄りのない患者、街を住処にしている患者、いつも福祉とは密接な関係があった。
寝ぼけて、救急隊の電話を断ったこともあった「うちは市民病院ではありません」、一緒に勤務していた同僚が慌てて消防の通信指令室に電話をしていたようだった。
入院患者の脱走もよくあった。豊川の河川敷を探したり、繁華街を探したり、追跡したり、まさかと思って入ってみた近所の居酒屋で、パジャマ姿の患者がお酒を飲んでいたこともあった。飲ませるなよー、まったく
結婚当初はお金がなかったので、人の分まで当直はやった。ある日、人事係長から、当直やりすぎとお小言があった。それでは係長の当直をお返しします。と言ったら二度とお小言はいただかなかった。
当直では、最初は食事ものどを通らなかったけど、やがて、どんな事故でも、家族が泣き叫ぶような状況でも、普通に仕事ができるようになった。慣れるということは、ある意味では本当に恐ろしいものだった。
救命救急センターの前には豆腐屋があって、我々が深夜を超えても忙しくしていると、いつの間にか朝が早い豆腐屋に明かりがともった。その明かりに、今日も夜が終わり、次の一日が来てしまったんだなと、自分の時が過ぎ去ってしまったようで、やりきれなさすら覚えたものだ。
誰かがやらなければならない仕事だったが、慣れてしまう自分にはなかなか納得できない、あの頃の日々だった。

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